12月20日(水)矢田分校多目的ホールにおいて、令和5年度第2学期終業式・生徒会長任命式が行われました。

校長式辞 2学期は市営中央体育館で運動会を行い、文化祭では中矢匡さんの講演、自衛隊のブラスバンド演奏がありました。考えることの必要性、流されるままに行動するのではなく考えて行動して下さい。

慶應高校弁論部の西田圭吾さんの弁論を紹介します。

「車内ではマスク着用のもと、会話はお控え頂くようお願い致します。」この声の正体は、電車やバスの車内アナウンスです。これは今では当たり前の風景となりました。コロナ禍では「声高に話すこと」が社会的に禁じられるようになりました。友人と食事をするときは一方向を向いての黙食でおしゃべりはできません。クラブ活動での練習、試合、大会はすべてリモート、これが私の高校生活でした。この「話さない」新しい生活様式は、私に大きな打撃を与えました。というのも先ほどクラブについてお話ししましたが、私が所属しているのは「ディベート部」、そして「弁論部」だからです。「声を大にして話さない」ことに尽力していた社会にとって、話すことを仕事とするディベート部、弁論部への視線は非常に厳しいものがありました。ディベートの活動や全国大会はオンライン開催で、また弁論大会は本来聴いてくれるはずの聴衆がいないままで行われました。そして口には不織布マスク、話す私と聴衆の間にはパーテーション、という制約付きです。このようにコロナウイルスは、人々から「話すこと」を奪いました。皆さんも私も声高に、自由に話す機会は奪われ、コミュニケーション面での厳しい制約を今現在も強いられています。私はこの生活を続けて深く考えるようになったことがあります。それは「話すこと」の重要性です。皆さんはお互いのことを知ろうとするとき、何をしますか。「声を掛け、話す」人が多いのではないでしょうか。話すことは他者を理解することと密接な繋がりがあります。人は話すことで、他者のことを理解します。言葉を用いてコミュニケーションを交わすことで、「他者」の異なる意見を知ることもできます。話すことでいつの間にか相手を理解し、信頼しあえる関係に繋がります。話すこととはすなわち他者理解のことです。これから皆さんと「話すこと」の重要性を体験してみましょう。

(10秒)

私は今の十秒間一言も言葉を発しませんでした。皆さんはこの私の無言の時間をどのように捉えましたか。私たち全員がこの十秒間で共通体験したことが一つあります。それは「静寂」です。皆さんはただ静かに座り、私(と手話の方)はただ黙って直立し、そこに沈黙が流れました。このままではお互いが何を考えているのか、感じているのか、全く分かりません。すなわち他者を理解しあうことはできません。つまり「話すこと」、「言葉を発する」ということ自体には、私たちが意識している以上にとてつもなく大きな意味が内在しているのです。このことを実感する大変大きな、果てしなく長い十秒だったのではないでしょうか。さてコロナ禍以前の社会は、当たり前話し、当たり前に討論し、当たり前に表現しあえる世の中でした。話すことは当たり前すぎて軽視されていました。では現状はどうでしょうか。私たちは今十分に他者を理解できているのでしょうか。他者理解に欠け、喋らない他者のことを各自で都合よく想像しながら、自分の考えだけで動くしかない場面は増えました。自己中心的に、利己的に、社会が動いてしまう場面もたびたび増えました。会話不足こそが、今頻発する事件や事故、あるいは国と国同士の戦争にまで繋がっているのではないでしょうか。会話が飛び交うコロナ前の世の中にこそ、今だから気づく、何気ない平和が内在していたのかもしれません。コロナ禍で話すことが制約されている今こそ、もう一度このような声高に話すことの重要性を再認識する必要があります。私も含め、ぜひ皆さん存分に話してみてください。マスク越しでもパーテーション越しでも。相手に自分の意見を表明し、また相手の意見にじっくり耳を傾けてみてください。そうすれば他者をより理解し、自分の考えが少しでも伝えられるはずです。この当たり前の行為である「喋ること」と、喋ることによりもたらされる少しの「平和」。私たちの生活はそのとき豊かになるはずです。

私は声を大にして言います。コロナ禍で上手に話そう。(是非本日の弁士交流会でも上手に話そう。)(丸括弧内は発表時都合により省略)

 

会話不足のため利己的な社会となり、戦争も起こりました。会話の重要性を再認識して下さい。色々なことを考えてみて下さい。自分で判断することが必要です。

3学期は総仕上げの学期です。生徒の皆さんは「継続は力なり」を信じて勉強・部活動・課外活動に励んで下さい。

 

生徒会長任命式  新生徒会長 2年K組 竹林拓斗君

係の先生から諸注意。諸連絡